【会報79】変わらない神の言葉にゆだねて
名古屋学院 名古屋中学高等学校 宗教部長 大薮博康
CBC ラジオ「キリストへの時間」が70年もの間、 放送されてきたことを感謝します。多くの教会やキ リスト教学校そしてアメリカの長老派教会の祈りと 献金によって、放送が続けられてきました。これは 神様の業であったと私は信じております。神様が多 くの人々を用いて、ラジオ伝道の業を続けさせてく ださったと確信しております。
私が仕えております、名古屋学院 名古屋中学校・ 高等学校は135年の歴史を数えています。その歴 史もまた、神様がいつも共にいて、それぞれの時代 の人々を用いて、歩みを続けることができたのです。 この学校は、名古屋にフレデリック・チャールズ・ クライン博士がやってきたことから始まります。名 古屋の中心である栄に、この学校の前身となる名古 屋英和学校がつくられました。校舎を建てるために、 クライン博士はアメリカに戻り、教会の人々に呼び 掛けて献金を集め、立派な洋風建築の校舎が立てら れました。クライン博士がこの学校の基礎、土台を 作ってくれました。そして現在に続く「敬神愛人」 というスクールモットーが定められました。クライ ン博士が帰国したのち、この学校にはユリシーズ・ モルフィー宣教師がやってきました。モルフィー宣 教師は大須にあった遊郭で働く女性たちの苦しい状 況を知り、彼女たちのために戦います。その働きは 全国の廃娼運動へとつながっていきました。やがて 学校は長久寺町(現在の東区白壁)に移転しました。 現在の金城学院中学校のある場所です。移転した学 校に大きな出来事がありました。有名な内村鑑三が、 ほんのわずかな期間でしたが、教鞭をとられました。 内村の影響は大きく、多くの生徒が集まりました。 内村の寄贈してくれた本が中心となって図書館が整 備されたと伝えられています。その後、この学校は 苦難の時代を過ごします。戦争が続いたからです。 キリスト教学校に対する国からの圧力は強くなります。学校の中でキリスト教の礼拝や聖書の授業を行ってはいけないという命令がくだります。その苦難の 時代に学校を守り導いたのが、木村克己校長でした。 校長として「敬神愛人」の教えを生徒たちに語り続 けました。学校の中では礼拝が行えなかったので、 校舎の外に礼拝所をつくり、そこで聖書の学びと礼 拝が続けられました。世界中を巻き込んだ戦争の果 てに、大空襲によって名古屋城が焼けおち、名古屋 学院の校舎もなくなってしまいました。
戦後、名古屋学院は再びアメリカの教会や学院関 係者、同窓生などの献金によって復興していきます。 しばらくして、学校は大幸町(現在の東区砂田橋) に移転しました。そこに新しい校舎とチャペルが立 てられました。クライン・メモリアル・チャペルと 名付けられたチャペルは学校の復興と共に、町の復 興のシンボルとして高くそびえ立ちました。今から 70年前に建てられたチャペルが、現在でも学校の シンボルとして用いられています。 やがて、この地から名古屋学院大学が誕生し、瀬戸 の広大な土地で発展し、現在は更に白鳥キャンパス、 日比野キャンパスで多くの学生が学び、豊かな実を 結んでいます。
名古屋学院の歴史をたどると、はじまりから苦難 があり、戦争中の苦しみをへて、現在があることを 思います。どのような苦難があっても、スクールモッ トーの「敬神愛人」を大切にして教育活動が続けら れました。礼拝を行い、聖書のみ言葉が語り続けら れました。
名古屋学院はクライン博士を通して、神様が立て てくださった学校です。神様の言葉を大切にした多くの人々によって守られてきた学校です。これから も神様の言葉に身をゆだねて、歩みが進められることでしょう。
「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」 (イザヤ書40章8節)